昭和四十三年九月七日 夜の御理解
日に日に生きていくと言うこと、又、日に日にお生かしのおかげを頂いておると言うことに喜びが感じられる生活、そういう生活をしていくことを教えておられるのが教祖だと私は思うのです。金光様のご信心をさせて頂くものは日々お生かしのおかげ頂いておることに喜びの湧く様な信心を頂かないといけない。金光様の教えを頂いておっても日々に生きていることに喜びが湧かないようなのはそれはちょっとおかしい。ですから、そこんところを追求して行かなければたとえば宗教にも色々あります。たとえば、現在の仏教などは、いうなら、人が死んだなら、お葬式をする。これも大事、魂を安らげるために魂をまつらしてもらうことのためにこれは大変大事なことです。ですけれども金光様の御信心は何処までも生きておるものの心を生かすというところにあります。ですから、信心頂いておるならば、私どもの心を一番喜びで、または日々の生活の中に喜びを見いださしてもらう。又、喜びの為の信心、修行を怠ってはならない。ですから、とりわけ、例えば、お取次の御用をさせて頂くものは自分の心自体が生きておらずして人の心を生かす事は出来ない。信心しておるもの自体が先ず生きておらなければ家庭を生かすことは出来ない。もちろん、おかげを生きたおかげにして行くことはなおさら出来ない。ですから、私どもの信心が、そう言う心を生き生きとした生きておったと言うことに喜びを感じられるようなそう言う生活であるかどうかということを見当しなければいけない。もう金光様の信心は、例えば、おさまりかえっておっただけではいけない。そこに喜びをただおかげを頂くということにただ、信心がつながっておるということであるから、だめ。それは、言うならばお棺の中に足を一歩踏み込んでおるようなもんだ。ですから、おかげを頂くということもありがたいけれども自分達の心の生き生きとして喜びに躍動するとまでもいかんにしても心が喜びの方向に向くたびに日々の信心生活が、でけていける。先ず何というても、今日お生かしのおかげを頂いておると言うことと又生きると言うことの喜びというものをわからしてもらえるような信心を頂きたい。人間の幸せ、幸福と言うものは私は金じゃない、物ではない。どんなに金があっても物があっても心が死んでおったらもうその財産も例えば地位名誉も心が死んでおったら、それはもう何の役にもたたない。心が生き生きとして喜びにあふれておったら、初めてその物やら、財産が生きてくるのである。ですから、先ず、物やら財産やらと言うことの前に自分の心が生き生きしておると言うこと、喜びに向かっておると言うこと。信心に生きておると言うことに喜びが湧くような信心を。今日あること、心から感謝させて頂ける信心を。そういう信心を身につけていかないとね。たとえば、既成宗教のように、ただお葬式するための宗教、死んだときのための魂をやすらぎのための宗教だったら、金光教の値打がない。日に日に生きるが信心、そういう日に日に生きていくだけでなく、生き生きとその喜びを目指しておる。いわゆる感謝の心を目指しておる。そういう心にならして頂けるというところにお道の信心があるのではないでしょうかね。今日、子ども達が沢山参ってきておるし、会うたんびに信心の訳のわからぬ子ども達が集まってくるが、何のために集まって来るのだろう。何のために金光教にお参りするのだろう。そこの所の目的をはっきりさせなければいけないと思うね。修行させてもらう人達は、それには先ず修行させて頂く人達はそれには*心が生き生きしとらんといけない。それには、もちろん幸福を求めないものはいない。ですから、幸福になるために信心をする。なら、幸福になるためには金やら、物やら、地位やらだけじゃない。その幸せの根本になるものは、心だ。その心を第一とするのが信心、そのぐらいことは内面的にわからして頂かねば、私はならないと思う。本当にだから、おおげさのようですけれども、子供ながらも人間の本当の幸福を目指してから、こうやって土曜だんびにでも来ておる。参っておるんだというような願いの元に少年少女会がなさらなけらばいけない。その先に子ども達は子ども達の世界と言うものがありますから。楽しいこともなからなけらばなりませんが、目指すものは根本のところは人間幸福になるための土台を小さいながらも幸福になるための土台を作っていきよるんだというように自覚を持たせる必要があると思うのですね。どうぞ。